2013年 05月 08日
GWが終わっても…緑滴る鎌倉にて |
ちょっと京都の記事をお休みして…
今年のGWは、肌寒いけれど晴天が続き、お天気に恵まれたお休みとなりました。
鎌倉は相変わらずの人出と車の渋滞で、住民は自家用車を日が落ちてからで無いと
思うように使えないという「夜型生活」を送っていました。
そういうわけで、日中は専ら「徒歩」での移動となりました。
歩き続けても、あまり汗をかかないほど気温が低かったのですが、「ハイキング」には
最適な気温だと、我家はプチ山歩きをいたしました。
「天園」のコースほど距離が無い「衣張山」コースは、午後から出かけても十分回ることが
できます。
犬懸橋から滑川に沿った道をしばらく歩くと、衣張山ハイキングコースの入り口に
ぶつかります。
滴るような緑色の新緑の中に野の花たちが可憐に咲いていました。
頭上を見上げれば、野生の藤も満開でした。
住宅地の奥から始まる「平成巡礼古道」という、林の中の山道をてくてく上って15分程で
衣張山の山頂の広場に着きます。
残念ながら富士山は見えませんでしたが、江ノ島まではよく見えました。
ここに登る度に、源頼朝を初めとする鎌倉幕府が、鎌倉を三方を山に護られた
「天然の要塞」を持つ、海に開けた都市として発展させようとしていたことがよくわかります。
それだけでなく、気候もあまり激しくない上に、海が近いとはいっても、直接太平洋に面して
いるわけでは無く、相模湾によって浪の勢いを穏やかにされた鎌倉の海から得る
「海の幸」などの「自然の恩恵」を期待する気持ちも大きかったのではと思います。
つまり鎌倉は、人々が暮らしやすい場所として選ばれた土地だったと思うのです。
しかし、時は流れて鎌倉幕府が滅びてしまうと武士たちは去り、鎌倉は歴史の
表舞台から姿を消し、幕府などの役所や武士たちが住んでいた屋敷は、取り壊されたり
朽ちていったりしてここに一時期「政権」があったという目に見える痕跡は無くなっていって
しまうのです。
たぶん、「支配者たち」は去ってしまっても、その時代に創建された寺社は残り、さらに
気候温暖、風光明媚な土地であったため、大方の庶民、そして幕府が滅んでも鎌倉に
残った一部の武士達が根付いて、鎌倉がある程度の規模の町として存続していったので
必要ではなくなった幕府の建物や武家屋敷などの跡地に、新しく人の暮らしを築いて
いったからだと思います。
そう、そして戦乱だけで無く、地震や津波などの天変地異の度に、町は新しく再建され、
さまざまな技術が向上して、文明が発達していくことで、土地は開墾され山は次々に
切り開かれていったのでしょう。
人がその土地で生きていく限り、「生活」していく上では、これは「必然」のことなのだと
思います。
歴史ある風光明媚な土地柄と、東京に比較的近い地の利でと明治以降も宮様や華族、
財界人たちの別荘や避暑地としても、またその閑静さが名だたる文豪たちにも愛されました。
そして昭和に入っての高度成長期には、首都圏に通えるベッドタウンとしても発展し、
鎌倉の人口は一気に増えました。
それは鎌倉が、風光明媚な生活しやすい町として、大方の日本人に愛されているからに
ほかならないでしょう。
その鎌倉が今月初め、20年越しで登録を願っていた「世界遺産」に「不記載」ということに
なってしまいました。
「不記載」になった理由は、既に報道等で周知されているので、ここには書きませんが、
理由の一つに「鎌倉の歴史的な重要性は十分に説明されているが、現在の資産の状況は、
連続した有形文化財として顕著な普遍的価値を有していることを証明できていない。
すなわち鎌倉の歴史的重要性が資産により十全な形で示されていない」(一部抜粋)と
ありました。
これは私が上に書いたように、鎌倉は「世界遺産」ができるより、はるか昔から日本人に
愛されていた町で、人が住みたくなる町だったから、まず人が生活することが優先された
こと。
そして歴史があると言っても、京都のように長い歴史はなく、また「朝廷」という大いなる
権力の存在があったこともなく、長い歴史の一時、武士が起こした政権があったという、
比較的短い歴史しかなかったので、その建物は必要なくなるから、建替えもないし、
また遺構が保存されにくかったということでしょう。
鎌倉の歴史に永続性がなかったのだから、しかたのないことだと思います。
自分の住む町が「世界遺産」の登録に「不記載」となってしまって、落胆された方も多いと
思います。
でも、私はこの日、緑濃い衣張山に登って、鎌倉の町と海、そして大船や横浜、葉山の
海や町を一望で見渡した時、鎌倉は今のままでいいとあらためて実感しました。
「世界遺産」になど登録されなくても、鎌倉にはかって強大な武士の政権があったことは
事実であり、宗教的にだけで無く日本人の思考や哲学にも大いに影響を与えた寺社が
今も数多くあるという由緒がある町であることに変わりは無いのです。
そして、この自然。
ここに住む人たちが、自分たちの町や歴史に誇りを持って暮らしているのなら、誰の
「お墨付き」が必要でありましょうか。
「世界遺産」という「お墨付き」に頼ること無く、自分の町の自然と歴史ある景観を
守っていくように、自ら努力すればよいのだと思いました。
「巡礼古道」のそこここで見かける「庚申塔」
こんな大きな岩を切り開いて…
山奥に点在する仏像。
鎌倉には町の中にも、人里離れた山の中にも、こうした歴史の遺物がたくさんあります。
でも、このままだといつか朽ち果てていってしまうような忘れられたような小さなものも
たくさんあります。
自然に任せて朽ちて大地に帰り、忘れられていくのもまた一つの「歴史」であります。
鎌倉が「武家の古都」として名を世界中に知らしめたいのであれば、「保存・維持」を
何よりも優先しなければならないでしょう。
2~3時間の短い山歩きでしたが、「世界遺産」に振り回されること無く、自分たちの町が
持つ歴史を、冷静に学び直すことが肝要なのではないかと「考える散策」となりました。
by toco-luglio
| 2013-05-08 15:04
| 鎌倉散歩