2011年 02月 14日
滋賀旅行記 ...その4 名もなき人々に大切に守られてきた 渡岸寺十一面観音 |
長らく間があいてしまいましたが、「滋賀旅行記」の再開です。
それぞれが近江にルーツを持つ私達夫婦ですが、この地で生まれ、育った経験もある
夫と違い、私の場合はルーツがあるというだけで、江州とは親戚が住んでいる、或いは
お墓がある...という個人的な関わりしかなく、長い時間、殆ど何も知らない状態でした。
そんな私が同じ近江人の血をひく夫と結婚したおかげで、私の中で近江の存在がとても
近くなってきたのです。
そして近江に魅かれた理由の一つは白洲正子さん。
白洲正子さんは、仏像にも大変造詣が深く、「十一面観音巡礼」という著書もあります。
その正子さんが、ことのほか近江を愛されていたことを私は「近江山河抄」や「かくれ里」
といった著書を読んで知りました。
あらゆることに独特の感性を持っておられた正子さんがたびたび訪ねるほど愛して
いらした近江路を私も歩いてみたいと思ったのです。
北近江(湖北)には、十一面観音がとても多いのですが、今回の旅では、その中でも
国宝に指定されている向源寺蔵(渡岸寺)十一面観音を訪ねました。
高月町にある浄土真宗のお寺「向源寺」↓
国宝十一面観音像が安置されている「渡岸寺観音堂」は、このお寺の所属です。
ここから、もう少し歩くと...「渡岸寺観音堂」に到着。
山門の前に大きな松の木がでーんと...
門の中から見たら、こんな感じ。大きい松ですよね。
渡岸寺の十一面観音像には、736年(天平8)に聖武天皇が泰澄大師に疱瘡流行の
除災祈願を命じたところ、泰澄はこの観音像を彫り上げ、「光眼寺」を建立して祀った
という由来があるそうです。
「光眼寺」は、1570年(元亀7)、浅井と織田の合戦により寺院は焼失しましたが、
当時の住職と地元の人々が、土中に埋めておいたので、難を逃れたそうです。
その後、住職が浄土真宗に改宗し、お寺も「向源寺」となって現在にいたっています。
十一面観音は、現在はこのように立派な「お堂」に安置されています。
鍵がかかっていて、誰でも入れるというわけではなく、本堂脇の拝観券売り場で
券を買うと、係りの人が扉を開けてくれて、中で説明もしてくださいます。
観音像の写真撮影は禁止だったので、こちらをご覧ください。
十一面の御顔は、すべてが優しい御顔というわけではなく、中には悪鬼のような怖い
お顔もありました。
そして特徴的なのは後ろ姿。
御衣のドレープがとても優雅で写実的でしたが、後ろ側をここまで丁寧に優美に
彫り上げてある仏像は、なかなか珍しいそうです。
近江は、琵琶湖を有する肥沃な土地柄で太古の昔から、時の為政者に重要な地と
目されていたのか、中大兄皇子が遷都した「大津京」もあり、天智天皇は、近江で
即位しています。近江には厖大な数の古墳があることからも、有力な豪族がいたことが
推測されるし、渡来人を住まわせた地域も、その地名に残っています。
湖北に点在する数多くの観音様は、その頃の建立といわれていますし、古い寺社も
たくさんあります。
また戦国時代には、都に近いという地の利と、その美しさから諸将にも愛され、
そのせいでたびたび戦火に巻き込まれることになります。
しかし、近江の人々は、度重なる災厄から観音様や仏様、そして寺社を護り続けて、
丁重に祀り続けてきたのでした。
井上靖、水上勉、白洲正子といった人々を惹き付けてやまなかった、はるか昔の人々が
心を込めて彫り上げて、今でも優美な近江の観音像...
それを護り続けたのは、為政者ではなく、地元の寺の住職や、名も無い一般の人々
だったのです。
最近、日本の倍以上の歴史を持つエジプトで、政変が起こりました。
30年以上続いたムバラク政権に対し、民衆が声を挙げて立ち上がったのです。
でも、その快挙の裏側で、混乱のどさくさにまぎれて、博物館からエジプト国民全体の
至宝が盗まれるという愚行が報道されました。
エジプトには、昔からピラミッドからミイラや副葬品を盗掘する輩がいたようですが、
今回の博物館での盗難事件は、民衆が声を挙げ、命をかけて「自由」を勝ち取った
(この先がどうなるかはまだわかりませんが)勇気ある行動を汚す行為だと思います。
今度は起こって欲しくないと思っていたのに、やはり起こってしまった「火事場泥棒」の
ようなエジプトの盗難事件のニュースを耳にした時、一千年以上も、戦火や盗難から、
自分達が大切に祀っている観音様を護り続けた近江の人々を、思わず思い起こして
しまいました...
by toco-luglio
| 2011-02-14 23:59
| 旅行