2010年 10月 20日
2010四国訪問記 ... その2 宇和島城へ!上の巻 |
翌朝も良いお天気で暑いぐらいでした。
ホテルから少し歩いた所に、宇和島城の正式な「登城口」があると聞いて、
歩いて出かけました。
松山もそうなのですが、大抵のお城は市街地の真中にあります。
お城の周りに街が広がっています。ここ、宇和島城もそのようです。
...と、伊達家の九曜紋の入った幟が見えてきて...あった、あった!
ここが実はお殿様も使っていたという正式な門だそうです。
門の前に、立派な風采の紳士の像が...
児島惟謙という、宇和島藩士出身の明治時代の司法官です。
明治24年(1891年)、滋賀県の大津で来日中のロシア皇太子が、津田三蔵という
巡査に切り付けられるという事件が起こりました。世に言う「大津事件」ですね。
児島惟謙は、当時大審院長で、この大津事件の審理を担当しました。
児島惟謙と大津事件の関係はリンクの方へ。
彼は、この事件の処理により司法権の独立の立役者となり、日本の三権分立に影響を
与えました。
ロシア皇太子は皇族ではないから「大逆罪」は適用しない...って、日露の外交問題を
頭に入れたら、なかなか言えることではないですが...
今の日本にこそ、こういう人求む!
さて、ではお城の門へ。
宇和島市指定文化財「上り立ち門」
武家の正門とされる「薬医門形式」で、現存する薬医門では最大級。
お殿様や藩士達は、ここから登城したらしいです。
さあ~いよいよ登城です。
ソテツが植わっていたりして、何気に南国ムード...
城山には約400種の植物が生い茂っているそうで、石垣は苔むしているし、かなり
鬱蒼とした雰囲気です。
途中の広場みたいな所で、地元のおじさん達に遭遇。
なんとボランティアのガイドさんたちでした。話しているうちに、その中の一人の方に
付いて登城することになりました。
山里倉庫。
1845年に建てられ、昔は三之丸にあった武器庫でしたが、昭和41年に伊達家より
譲渡され、城山に移築されました。現在は「城山郷土館」という資料館になっています。
ここで昔の写真を見ました。
宇和島に来た時から不思議だったのは、街の規模のわりに道路幅が広いことと
お城以外にあまり古い建物が無いこと。
写真を見ていてわかったのですが、太平洋戦争で宇和島市も空襲を受け、お城以外の
城下はすべて焼き払われてしまったからなのでした。
市内の建物や道路は、戦後建築されたり整備されたものだったのですね。
なぜ宇和島が空襲に?と聞いたら、資料館の方が「予科練があったから」とおっしゃって
いました。海軍航空隊のあった松山も大空襲を受けたのですが、宇和島もそうだったの
ですね。それにしても軍事施設だけでなく、一般人の住んでいた市街地も焼き払うとは、
戦争ってむごい...とあらためて思いました。
この建物の隣には古い木造の家屋がありました。
穂積の陳重・八束兄弟の生家長屋門でした。
兄の穂積陳重は、日本初の五人の法学者の一人で、現在の中央大学の創立者の
一人です。弟の穂積八束も法学者で、現在の日本大学の設立に携わりました。
穂積兄弟も旧宇和島藩士で、父親は家老職でした。
元は他の場所にあった建物を、やはり移築してここに保存しているようです。
また上に上っていきます。
ガイドの方によると、宇和島城の石垣は、年々膨らんできているそうです。
上に生えている樹木の根っこが張ってそういうことになっているらしいです。
少しずつ修復しようとしているようですが、市にお金が無いのだそう。
現存十二天守の一つなのだから、国がお金を出して保存すればいいのに。
歴史的価値のあるものは国全体で守っていくべきだと思います。
せっかく巨額のお金をかけて造ったのに、入場者が少なくて建て壊したり、民間に
払い下げたりすような無駄遣いをしているぐらいなら、こういう歴史のある文化財に
もっとお金を回すべきだと思います。
さて、いよいよ国重要文化財の宇和島城天守が見えてきました!
それにしても、石垣草茫々だわ~
同じ現存十二天守でも、松山城や彦根城は綺麗に整備されているのに...
もう一つ、アップでどーん!!!
宇和島城(別名鶴島城)は慶長元年~6年(1596~1601)にかけて、城築城の名手で
あった藤堂高虎が創建し、その後何人か城主が変って、元和元年(1615年)に藩主と
なった伊達家によって、修築を重ねられていきました。
小さいけれど、造りもなかなか凝ったお城です。
藤堂高虎は近江の犬上甲良の出身で、最初は浅井長政に仕えていました。
ここの石垣も石積みのプロ集団、近江の穴太衆が関わっていたらしいのですが、
近江出身の高虎が連れてきたそうです。
でも藩主が譜代大名であった松山城に比べると、ある種の「威容」は感じません。
もっとのんびりした感じがします。
これは、外様大名が要塞のようなお城を造ると幕府に睨まれ、下手をすると藩ごと
「お取り潰し」になってしまう可能性があるからです。
見た目は太平の世にふさわしい造りに見えますが、実際は腰高の窓から鉄砲を
直接射撃できるように設計されているそうです。
天守の前から見える景色。海が見えます。
高虎の時代には、海水がお城のすぐ下まで引き込んであった「海城」だったそうです。
今のお城の西側は殆ど埋立地ということです。
宇和島という街は埋め立てを繰り返して発展してきたのですね。
さあ、お城の中に入りましょう!
それにしても、この穂積兄弟といい、児島惟謙といい、宇和島藩から日本の司法の
草創期に関わった人が輩出しているところがすごい。
松山は秋山兄弟とか軍人が有名なのに。
どうも違いは、幕末にありそうですね。
その続きはお城の中で...
by toco-luglio
| 2010-10-20 05:30
| 旅行